一年でもっとも太陽の出ている時間が長い一日でありながら、八ヶ岳は梅雨入り以来、くもりやガス(山霧)をベースに雨が降ったりときたま晴れ間が覗いたりといったお天気が続いており、夏至の昨日もまた御多分にもれず小屋のすぐ目の前にあるはずの主稜線は、透けそうで透けない乳白色のヴェールに包まれたままだった。
ぼくはストーブを焚いた小屋の受付で、西堀栄三郎氏の『南極越冬記』(岩波新書)を読む。前回の休暇中、長野市の平安堂4階の古書コーナーで見つけた一冊だ。100円也。
西堀栄三郎氏は第一次南極観測隊副隊長と越冬隊隊長を勤めた人であり、ぼくはその名前と役職を植村直己の『北極圏一万二千キロ』という本の冒頭に初めて知った。西堀氏はその序文に「探検とはどういうものか、探検家とはどうあるべきか」ということを書いている。
その西堀氏の南極越冬は、名目は国際的な南極観測(国際地球観測年)への参加のための下見にあったが、その実際はそれまで日本人では前例のなかった南極での越冬を、それが可能なのか不可能なのか、どうしたらそれが技術的に可能となるのかを自らの身をもって「試す」という、失敗の場合は生命すら保証されない多分に実験的要素を含むものだった。
「日本を出発するまえ、探検か観測かという議論があったが(中略)、現在の南極で探検的要素をふくまない観測などはあり得ない。条件は未知なのである」と彼は書いたあとに、それを成し遂げるための心得として「最悪の場合を考えて準備し、その上にうまくいったときの準備を積み上げる」と説いた。そしてまた、「そうでなければ、最上の条件だけをあてにするという大変な冒険をおかすことになる」とも。
この本には、隊の越冬の様子はもちろんだが、同時に彼が南極の越冬隊を率いる上で生じた他の隊員や本国の役人らとの意識の相違による悩み、ジレンマ、不満なども随所に書かれている。
余暇の時間はマージャンに熱中し、科学的観測や未開拓地の調査に興味を示さない隊員たちの覇気のなさ。机上の理論だけで南極という土地を計ろうとする学者や役人たちの無理解さとあたまの固さ。西堀氏は常にこれらと闘いながら、現在にまで至る南極観測隊の基礎を作っていったのである。
ぼくがこの本を読んでまず驚いたのが、全員無事越冬を果たして帰還したという華々しい結果の裏側に、これほどまでの葛藤や問題が隊の内部に存在していたということだった。
植村直己の北極圏犬ぞり旅行は第一次南極越冬隊の17年後の1974年。
『一万二千キロ』の序文を「読者諸賢においては、未知なるものに挑む一人の探検家の行為の裡に、その人間性を読みとっていただきたいと私は願っている」と締めくくった西堀栄三郎氏の、その探検家としての自身の熱い記録が、この本にははっきりと刻まれている。