2009年12月26日土曜日

Merry Xmas from New Zealand

12月25日は、みんなが楽しみクリスマスの日♪

それは夏真っ盛り(?)のニュージーランドでもおなじこと。数週間前からホテルのロビーにクリスマスツリーが飾られ、ちょっと早めの20日には従業員宿舎として使われているホテル旧別館のバーで、飲めや踊れや、従業員専用のクリスマスパーティー。そしてイブの夜には、ホテルのバーでお客さんも交えてクリスマスソングを歌うクリスマスキャロルも行われました。
年によっては、夏といえども雪が降ってホワイトクリスマスになることもあるというマウントクックのクリスマスですが、今年は12月前半の悪天続きがウソのように天候が安定。ホテルスタッフもお客さんも、みんな半袖シャツのままサンタ帽なんかをかぶったりして、まさにイメージそのままの「南半球のクリスマス」でした(笑)

しかしそれでも、気温が高くて、身体中の毛穴が緩んでいるような状況での年末年始は、やはりイマイチ実感がわかないのが困ったところです。
妙高高原は赤倉ユアーズイン(と妙高バックカントリースキースクール)で居候をしていた例年であれば、クリスマス・お正月なんて宿泊業にとっては特に稼ぎ時。ぼくもスキーのレッスンを終えて、身体をゆっくり温泉で温める間もないままキッチンで夕食の準備をしたり、お正月なら早朝からおせち料理の盛り付けを手伝ったりしていたもの。
それがここに来てみたら、晴れるとジリジリ焼かれるような太陽の下で、おまけに年末年始は航空券が高いためか日本からのトレッキングのお客さんも減ってしまい、ワーホリ組みんなで一週間以上の連休をもらってしまう始末。
こんなのんびりな年末年始はひさしぶりすぎて(おそらく高校以来!?)、むしろどうしたら良いのか、身体が戸惑っているといっても過言ではないでしょう(^^;)

ちなみに25日の昨日は、セアリーロッジのワーホリ3人組で、おとなりのロッジに住む日本人家族のパーティーにお呼ばれしてきました。
4時ごろからお宅にお邪魔し、ヘトヘトになるまで小学生のお姉ちゃんと就学前の妹ちゃん姉妹と遊んだ後は、炊き込みご飯やコールスローサラダ、ローストチキンなどの晩御飯。これがどれも素晴らしい味と量!
そしてさらに食後には、ぼくらワーホリ3人組でつくったクリスマスケーキも登場。

題して、「ブッシュ・ド・ノエルとクリスマスの夜に雪積もるオヤツの家」。


これは、これまでセアリーロッジでつくられたどんなケーキやお菓子よりも気合が入ってますよ~!! 子どもたちはもちろん、奥さんまで大興奮。そしてじつはつくった本人たちも、予想以上の出来栄えに大興奮w あまりにもったいなくて、崩せない、切り分けられないくらいでした。
ちなみにわたくしの担当は「サンタさんとスノーマン(雪だるま)」。マシュマロとチョコレートと、以前焼いたパブロバをつかって頑張ってみました。屋根のうえで夜空を見上げるサンタさんが、「パワプロ」みたいでお気に入りです♪ww

気分こそなかなかクリスマスに浸れませんが、ケーキは美味しいし、実際にこれが終われば、あと年内残すは数日のみ。2010年はまもなくです。

というわけで、少し遅くなりましたがみなさんに、
I wish you a Merry Christmas, and a Happy New Year!! ;-)

2009年12月24日木曜日

ふたたびミューラー小屋へ Day-3

12月23日

やはり日の出前に目が覚める。三日連続の好天。

午前中はワーデンのMarkさんからいろんなお話を聴かせていただきました。年齢は六十代後半。毎年イギリスから、マウントクックやアスパイアリング国立公園の小屋で、それぞれ数週間ずつワーデンをするためにNZに来るというMarkさん。どうやってワーデンになったのか。旧い小屋のこと。マウントクックにある他の小屋のこと。ワーデンをしていてたいへんなこと。
彼によると、以前は滞在中の食料はもちろん、食事を作ったりする燃料までじぶんで担ぎ上げなくてはならなかったらしいです。また小屋にはシャワーもないため、2~3日に一回村に下りてきてはシャワーを浴びて食料品を購入し、またその日のうちに小屋に上がるんだとか。夏とはいえブリザードになることもあるし、一週間大雨つづきで、ひたすら独り、寝袋に包まりつづけたこともあるそうです。
そしてなによりも、これはボランティア。つまりお給料はいっさい出ないのだとか!

それでも本当にフレンドリーに、だれとでもおしゃべりをするMarkさんをみていると、山小屋の印象は「建物」ではなく「小屋番」で決まるんだと、改めて実感しました。





あとは小屋まで遊びにきた野生のオウム、ケアの写真を撮ったりして、ぼくはホテルのスタッフダイニングでの昼食に間に合わせるために9:30am下山開始。
途中休憩もとらずにいっきに下山。12:00pmにホテル着。アイゼンとピッケルを返却して、DOCにて下山を報告して、無事終了と相成ったのでした。

-おわり-

ふたたびミューラー小屋へ Day-2

12月22日

6:00am頃 日の出


明け方の景色がキレイなので、なんとなくカメラを持って外に出たら、そのままなんとなく小屋の背後のオリビエ山に登ってしまいました。こちらはルート標識も特にありませんが、大岩の積み重なった稜線を30分ほどで山頂。東南方遥か眼下にプカキ湖が望め、朝靄に陽が射しています。
帰りは固い雪の斜面をお尻で滑り下りて、小屋でゆかりおにぎりとお味噌汁の朝食。

ぼく以外の女の子ふたりは一泊だけ(ぼくだけ二泊)なのですが、なにせ「下山=帰宅」というアプローチまったく必要なしの彼女らは、小屋でゆっくり昼寝をしたり周辺を散策したりと、屋外ランチまでのんびり楽しんでから1:30pmに下山していきました。



ひとりになった午後は、正面の断崖で頻繁に起こる氷河の雪崩の轟音を聴きながら読書。オリビエ山より先の稜線の縦走は、ぼくにはレベルが高すぎて行くことができないし、周辺を散策といっても雪と岩と、わずかな植物と昆虫だけの世界ではすぐに飽きてしまう。山々の写真ならもう昨日だいぶ撮ってしまったし……
なにより、山で「ナニモシナイ」時間というのは、最高のゼイタクなのであります。これ、小屋番経験者が言うんだから間違いない(笑)

9:20pm頃 日没、夕焼け


この晩のミューラー小屋宿泊者数はぐっと減って、たったの4名。それでも国立公園内の山小屋全体で見ればかなり賑わっており、夜7時の公園本部と各小屋の無線交信を聞いていると(山小屋には必ず備えつけの無線があって、毎日その小屋の宿泊パーティー数の確認と翌日の天気予報が交信される)、昨晩は2~3箇所だった小屋への呼びかけが、今晩は10箇所あまり。
最初に全小屋にむけて最新の天気予報が伝えられ、その後本部のスタッフがひとつひとつの小屋に呼びかけていくのですが、それぞれ小屋に滞在している登山者が応答していくのを地図に指で追っていくと、それまではただの地図上のちいさな印でしかなかったものが、突然電燈を灯したように、どこかの険しい尾根の上の、どこかの雪原の上のちいさな小屋の中でぼくらと同じように無線機に耳を澄ましている登山者の姿が脳裏に浮かび、不思議な連帯感のようなものを感じます。

山は不思議です。見知らぬ同士の人と人とを、こころで結びます。

夜はふたたび満天の星空でした。

-つづく-

ふたたびミューラー小屋へ Day-1

9連休の真っ只中、ひさびさに天候も落ち着いて数日間の晴天に恵まれたので、セアリーロッジのワーホリ三人組で念願のミューラー小屋(Mueller Hut)への宿泊登山をしてきました!

12月21日

予報のとおり、素晴らしい快晴。朝食にホテルのスタッフダイニングへ上がったついでにDOC(国立公園本部)で入山届け兼ハットパス、つまり山小屋の宿泊券を購入。DOCの中には他にもアイゼン・ピッケルを持って、いかにも登山者っぽい人たちがチラホラいて、ミューラー小屋のパスもけっこう出ている模様です。なにせクリスマス休暇期間の、しかもひさびさに好天が続きそうですからね。ぼくらもオフィサーから小屋やルートの雪の状況を聞いた上で一旦帰宅し、登山準備です。
ここに住んでいると、天候の良いときを見計らって、しかも行き帰りの時間なども気にせずに登りにいけるのが最大の利点。午前中はゆっくり準備にあてて、スタッフダイニングで昼食をとって、念のためAlpine Guides社でアイゼンとピッケルを借りてから出発しました。

1:20pm 出発

今回は山小屋宿泊ということで寝袋や食料も持参なので、いつも以上に重たいザックに、山に登りなれない女子陣は一般ルートとして整備されているセアリーターンズまででもけっこう大変そう。しかも太陽ギラギラで暑い!

2:50pm セアリーターンズ

ここより先は、頻繁にオレンジ色のマーカーは立っているが、登山経験者向きのルート。前回にくらべてだいぶ雪も溶けてタソック(高原の草原)が出ていますが、やはり稜線に出る手前はまだまだ広大な雪の斜面です。アイゼン・ピッケルはなくても登れるけど、雪が軟らかすぎて滑りやすいので、あると安心。
そこを登れば、あとはなだらかな稜線伝いに30分ほどで雪原に囲まれた赤い建物のミューラー小屋に到着です。

6:00pm ミューラー小屋到着

日本の山だと、山小屋の親父に「遅い!バカモン!!」と怒られてしまう時間ですが、NZではまだまだ夕暮れまでは3時間以上ある明るい時間。ワーデン(夏期のみ常駐する小屋の管理人)のMarkさんに到着を告げ、あとは小屋や周辺でまったり。晩御飯は辛ラーメン(インスタント)と辛ラーメンライス。辛いです。
マウントクックの夕焼けも美しく、また夕空の色あいの妙なこと!日本と逆向きの三日月は早々に沈み、夜は流星流れる星空でした。



ちなみにこの日の晩は満員で、到着の遅かったぼくら以降の人たちはバンクルームに入れず、ダイニングのベンチにマットレスを敷いての宿泊でした。それでも目を開けるだけで、窓からマウントクックと星が眺められる特等席でした♪

-つづく-

2009年12月20日日曜日

ニュージーランドの夜に

前回は「見られません」というお話でしたが、今回は「見れるんです」というお話。

先日、うちのガイドチームでも最も勤務年数の長いベテランガイドさんと、ぼくのニュージーランドが終わった後のことを話していたときのことです。「最近になってカナダにも行ってみたくなっちゃって」とか「もともとぼくはアラスカでオーロラを見るのが夢なんですヨ」なんて話をしたら、衝撃の事実を教えていただきました。

それはなんと、「ニュージーランドでもオーロラを見ることができる」らしいのです!!
そのガイドさんによると、何年か前に、このマウントクック村から御自身の目でオーロラをご覧になったことがあるのだそうです。

でもまぁ、たしかに考えてみれば、ここマウントクック村の緯度は(南北の違いはあれど)日本でいうと北海道の旭川市とほとんど同じ南緯43度。北海道でも、空がぼんやりと赤く染まるオーロラをときおり観測できるという話は聞いたことがあるので、地球の極軸から同じ距離のここでも、同じことができて不思議ではないわけです。
しかしさらに話を聞いてみると、ニュージーランドで見られるオーロラは北海道のそれのように単色ボヤァっとではなく、きちんと(という言い方も変ですが)美しい極彩色のカーテン状になるんだとか。

どうも調べてみると、オーロラは「オーロラベルト」と呼ばれる極を中心とした輪っか状に現れるらしいのですが、その極というのは地軸(北極点・南極点)ではなく、磁極を中心としているらしいのです。そしてその磁極とやらが、北半球ではカナダ側に、南半球ではオーストラリアやニュージーランド側に寄っているために、北海道なんかに比べるとより近くで鮮明に見られるというわけなのですね。

難しい解説はさておいても、じつはニュージーランドでオーロラが見られると知ったぼく(そして相方も)の口惜しさたるや……
そうと知っていたら、クィーンズタウンに住んでいた夜長の冬のあいだだって、もっと毎晩空をチェックしていただろうに!実際に、クィーンズタウン在住の日本人で、QTで撮影したオーロラの写真集を販売されている方がいらっしゃるそうですよ。ネットで検索してみたら、サンプルのあまりのステキ写真にぼくは溜め息をつきっぱなしでした。(ご覧になりたい方は⇒こちら
しかしその方のサイトでオーロラ予報のwebページも知ったし、これからは気合を入れて毎日予報をチェックしていきたいと思います。

幸い(?)、トレッキングチーム全体が年末年始のヒマな時期になり、昨日からぼくは9連休。
当然そのあいだは収入がなくなるわけですが、ガッカリしていても仕方がないので、いままでチャンスを狙っていた小屋泊山行やちょっと難しいルートにも挑戦してみたいと思います♪

星空&オーロラ&氷河の山々、撮ったるぞーっ!!!!(>_<)/

2009年12月16日水曜日

3分の1

タイトルの数字は、ここマウントクック国立公園で一般的にいわれる、マウントクックの山頂を見ることのできる確率です。

三連休の後半、おとといと昨日はじつに一週間ぶりの好天に恵まれました。雨具を着ないで、足元も気にしないでどこでも歩けるなんて、なんて幸せな気分なんだろう!先週は登山靴や雨具が乾ききらないうちに、また次のガイドに出なければならなかったので、おととい昨日で靴も雨具もザックもその中身も、ぜんぶぜんぶぜーんぶ!乾かしてやりましたv
ちなみに12月に入ってから昨日までの晴天率を集計すると、十五日あるうち快晴だったのは二日、快晴でなくとも山頂が見えた日までいれても五日だけ。晴れでも雨でもハイキングは行われるので、山が見られなくともお客さんに満足してもらえるガイドをしなくてはならないのが良い意味でプレッシャーになってます。

そんな昨日は、ホワイトホースヒルのキャンプ場まで自転車で走って、今週ツアーの入っているセアリーターンズまで下見ハイキングをして、夕食後は先輩ガイドのIchiさんとテニスを3ゲーム先取制で7セット(ちなみに5勝2敗♪)。さらに午後8時を過ぎてからブラックバーチの岩にも20分くらい取り付いて、まさにアウトドア三昧の休日でした!

ニュージーランドでは時まさに夏至目前で、晴れさえすればなが~い一日が楽しめます。現在は、明るくなりだすのが午前5時過ぎで、マウントクックが夕焼けるのが午後9時20分。
つい先日まで、お客さんに「夕焼けは午後9時頃ですよー」なんて案内をしていたのですが、しばらく降り続いたうちにだいぶ日が延びていたんですね。

激しい三寒四温をくり返しつつ、ここマウントクック国立公園も真夏に向かいつつあるようです。

2009年12月8日火曜日

岩遊びとセバストポール

10月、11月上旬は快晴がつづいていたマウントクックでしたが、ここ二、三週間は「マウントクックらしい」悪天候が続いています。気がつけば、ワーホリで(同一雇用主の下で)働ける三ヶ月も折り返し点をまわってしまい、まだほとんどどこにも登ってないじゃん……と、やや焦りすら感じてしまう今日この頃です。

これは、好天に恵まれた休日を逃していてはイカン!と一念発起して、おととい昨日と、先輩ガイドのRyoさんにボルダリングとMt.Sebastopol(セバストポール山)へと連れていっていただきました。

マウントクック周辺で気軽に行けるボルダリングスポットとしては、村のすぐ裏手を流れるBlack Birch Stream(ブラックバーチ川)の岩壁やWhite Horse Hill campsite(ホワイトホースヒル・キャンプ場)の裏の岩があるのですが、今回はうちらのロッジから10分もかからないで行けるブラックバーチに案内してもらいました。
ぼくのクライミング経験は、大学のワンゲル時代の沢登り経験が二年ほどと、わずか数回の人口壁のみ。(ちなみにクライミングというと「上」方向に壁を登っていくことで、ボルダリングというとあまり高くないところを「横」方向に壁を伝っていくこと、、、だと思います^^;)
Ryoさんに腕を楽にするコツや、足に乗るコツなんかを教えてもらいながらとりあえず取り付いてみたのですが、むむぅ、どうしてなかなか。「オレも久しぶりだからね」なんて言いながら、すんなり端から端まで行けてしまうRyoさんのようには行きません。それでも「センスいいよ~」なんてオダテられながら30分ほど交代でしていたのですが、やはり慣れぬ岩感覚にすぐパンプしてしまいましたね。



日本の春~秋に働いていた赤岳鉱泉でも、いちどアイスクライミングに挑戦したことがあるのですが、あのときも20mほどの氷壁を登りきれずに悔しい思いをしたものです。ガンバラネバ!

そして昨日も、同じくRyoさんのご自宅にいきなりお邪魔していきなりセパストポールにお誘いしてしまったのですが、快く引き受けてくださり、後輩思いのRyoさんには本当に感謝です……(T-T)

セバストポールは、ぼくらの従業員住居のあるマウントクック村のすぐ裏手(南側)、ブラックバーチ川を越えて登るレッドターンズ・トラックから、さらに登って到達する山になります。ちなみに村の標高750m、レッドターンズ1050m、そしてセパストポールが1458m。
簡単に報告すれば、つねにおしゃべりできるくらいのペースで登って、村‐レッドターンズ(45分)、レッドターンズ‐セバストポール山頂(1時間ちょい)、セバストポール山頂‐村(1時間)でした。

途中の踏みあとは案外しっかりついているのですが、ところによっては足元注意な岩場や、下山時の道見失い注意な箇所もあり、すくなくとも初めての人は経験者といくことを断固オススメします。
しかし村からわずか2時間の登りで、NZ最大のタズマン氷河、ミルキーブルーの湖水をたたえるプカキ湖、その氷河が村の水源にもなっているアネッテ山、ミューラー小屋のあるセアリーレンジの稜線と、懸垂氷河が素晴らしいマウント・セフトン、われらが最高峰のマウント・クック、そしてマウントクック村のあるフッカー谷やタズマン谷の全貌まで、360度すべてが眺められる場所に行けるというのは、なんて恵まれた環境にいるのだろうと感謝せずにはいられません。
ステキな裏山といえば『ドラ○もん』がなんといっても代表格ですが、セバストポールは、それにも負けないナイス裏山っぷりでした!



これから契約期間終了まで、いったい何日「晴天の休日」が当たるかわかりませんが、ミューラー小屋やセフトン・ビブ(避難小屋の名前)の一泊ハイク、イーストフッカー・トラックなど、残りの一ヶ月ちょいでいろいろ足をのばしてみたいですね♪

2009年12月6日日曜日

誕生日でした

昨日で26歳になりました。

じつは、なぜか知らねど、ハーミテージの日本人スタッフは11月、12月生まれが多いんですね。
昨日がぼく、今日が先輩ガイドの奥さんが誕生日だったので、昨晩は二人まとめて、日にちをまたがってのパーティーでお祝いをしていただきました。

みなさん、本当にありがとうございました!楽しゅう&美味しゅうございましたm(__)m

昨年はたしか行者小屋も終わって、冬の妙高が始まるまでのつなぎで、東京でクロネコヤマトの宅急便バイト真っ最中。
今年は、彼女こそ近くにはいなかったけれど、職場に恵まれての誕生日。
はたして来年は、いったいどこで、だれと祝っていることか……笑

どういうかたちにせよ、愉快な26歳になりますように!頑張りますよ~!!

2009年12月3日木曜日

ヒラリー卿伝記 -2-

というわけで、「ヒラリー卿の伝記本」でしたね。

本はパフィンブックスの"Reaching The Summit"。こちらの出版社のことはよく知りませんが、文章や単語の簡単さ、文字の大きさなどから思うに児童向けの本なのでしょう。伝記本というのは、いきなり話が突拍子もなく飛んだりしないので、英語の苦手な人にも読みやすくてオススメですよ。この本も、このくらいなら過度に頭を使わなくても読めるので、日本人が読む英語の伝記本としてはなかなか良い具合です。

ヒラリーは英国隊の隊員としてエベレストに登頂したため、彼はイギリス人なのではと思っている人もいるかもしれませんが、彼は北島のオークランド近郊で生まれ育った、れっきとしたニュージーランド人です。
若いうちから兄弟で養蜂の仕事をし、第二次世界大戦時は空軍に所属するもキリスト教徒のじぶんが人を殺める戦争に加担してよいのかと思い悩み、一旦離軍。そのときに初めて友人とマウントクック国立公園を訪れ、ハーミテージホテルに宿泊し、ミューラーハットを経てオリビエ山に登頂し、そこで本格的な登山に目覚めたといわれています。
戦後も養蜂家として働きながら登山もつづけ、マウントクックも含めた周辺の山々で氷雪のテクニックを磨き、やがて英国のエベレスト遠征隊からの御声がかかり、そこに参加。

ヒラリーはエベレストでは隊のなかでもバツグンの能力を発揮し、次第にシェルパのテンジン=ノルゲイとペアを組むようになり、ついに標高8500mの最終キャンプから頂上(8850m)へのアタック隊の第二候補として二人が選ばれます。
第一候補の二人は頂上まで100m足らずのところまで登るも、酸素ボンベの不調で敗退。それを受けてヒラリー・テンジン組が挑戦し、現在ヒラリーステップと呼ばれている最後の難関をなんとか乗り越え、1953年5月29日の正午近く、二人は世界最高峰の初登頂を成し遂げたのです。
その偉業から彼はエリザベス女王から「サー」の称号を与えられ、その直後に結婚。「ヒラリーと言えばエベレスト初登頂」くらいしか知られていませんが、じつはその後もヒマラヤの雪男イエティを探しにいったり、高地での人体機能の研究隊の隊長をしたり、また英国の南極大陸横断隊のサポートとして改造した農業用トラクターで南極点に達したりと、けっこうその後の探検史にも足跡を残しています。

しかしヒラリー卿の人生を語るうえで、ニュージーランドの人が本当に誇りをもって謳うのは、もしかしたら「それらの後」のことかもしれません。
長年ヒマラヤの山々に通った彼は、その後お世話になったシェルパ族への恩返しとして、彼らの生活向上のための「ヒマラヤ・トラスト」という支援財団を設立。学校や病院、橋の建設などをネパールのあちこちで行いました。それは、最愛の奥さんと末娘を飛行機事故で失ってからも深い悲しみを超えて40年以上も続けられ、現在ではその学校で学んだシェルパたちが世界中で活躍しています。
なにを隠そう、じつはここマウントクックの日本語ガイドチームで働いているシェルパの人もヒラリー卿の建てた学校を卒業しているのです。彼はシェルパ語やネパール語はもちろん、英語や、自身一度も行ったことがないのに日本語まで完璧に話し、ガイドもしてしまうというツワモノです。

ヒラリー卿は2007年にオークランドで亡くなる前から、ニュージーランド本国、そしてネパールでも英雄でした。生前からお札に顔が載る人というのも、国家元首以外でとなると世界的にも珍しいのではないでしょうか。(NZの5ドル札にはヒラリー卿の若い頃の横顔が印刷されています)
もし彼がたんにエベレスト初登頂をしただけだったら、きっとここまで国民的なヒーローまでにはならなかったでしょう。こちらの人は、いまでも尊敬の念と愛情をもって、彼のことを"Sir Ed"と呼びます。

飾り気はなくとも、類まれな能力と人格を有する者。

長い伝統で洗礼されたイギリスや、近代文明の粋のようなアメリカとも一味違う、田舎ゆえに自然と向き合うことで培われた芯の強さと素朴さをあわせもつ、いかにもニュージーランドらしい人物の第一人者といえるでしょう。

彼が生前に残した言葉です。
「いま人生を振りかえってみて断言できることがある。私がしてきた探検の多くはささやかなものだ。自分がしてきたことでもっとも価値があったのは、偉大な山々の頂や、最果ての地に立ったことではなく、ヒマラヤに暮らす大切な友人たちのために学校や診療所を建てたり、美しい僧院を再建する手伝いをしたことである」

2009年12月2日水曜日

ヒラリー卿伝記 -1-

ここ一、二週間ほど、雨と強風の悪天候が続いています。
マウントクックは、NZとオーストラリアとのあいだにあるタズマン海から吹き寄せる湿った西風がサザンアルプスの山脈でいっきに雨雪を落とすために(ちょうど冬の日本海と日本アルプスの関係ですね)、元来その山頂を見られる確率が低い山といわれております。一般的にいわれる確率がおよそ3分の1なのですが、ここ二週間に限れば、おそらく20%に満たないのではないでしょうか。

ここ数日は風もおさまったのですが、先週はずっと、晴れでも雨でも連日台風並みの暴風。フッカー谷で渡る二つの川は、突風によって下から吹き上がる水の飛沫が30mの高さにまで達し、そのうえにかかる二つの吊橋はノタウチマワル大蛇が如く。背の高い植生のない氷河地形では、風によって飛ばされた砂利が散弾銃のように顔を撃ち…… といった具合で、ぼくたちガイドにとっても、そしてもちろんお客さんにとっても、難儀なツアーが続きました。
それでも(ガイドが危険ではないと判断する範囲内で)ツアーは行われます。せっかく旅行中の貴重なお時間を割いて来てくださっているので、悪天候も含めて、この自然のスケールを感じていただきたいのです。もちろん無理をさせるようなことはしませんが、そんな日のツアーは、ホテルに帰ってきたときの、スタート時に比べてすこし逞しくなったお客さんの顔が印象的です。

自然の厳しさは、人間を強くします。肉体的に、そして精神的に。
ぼくの座右の一冊、サン=テグジュペリの『人間の土地』は「ぼくら人間について、大地が万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗せんがためだ」(堀口大學訳)という文章ではじまります。「行動の思想家」と呼ばれることもある著者らしい一文ですが、山や自然の中に身を置いたことのある人にはきっと、理解していただけるのではないでしょうか。
(余談ですが、ここのブログのタイトルも、『人間の土地』の英語版のタイトル"Wind, Sand and Stars"からのモジリだったりします)

ここマウントクック周辺の自然で鍛えられ、のちに世界的な有名人になったのが、世界最高峰であるエベレスト(8850m)の初登頂を成し遂げたエドモンド・ヒラリー卿です。
じつはヒラリー卿の伝記をマウントクックに来るだいぶ以前に買っていたのですが、しばらく手がつけられず(英語の本は、読みはじめが一番の難関なのです^^;)、ようやくこの悪天続きで本腰入れて読みはじめ、先日読みきることができました。

、、、というわけで、肝心の本については長くなるのでまた次回。つづきます~