というわけで、「ヒラリー卿の伝記本」でしたね。
本はパフィンブックスの"Reaching The Summit"。こちらの出版社のことはよく知りませんが、文章や単語の簡単さ、文字の大きさなどから思うに児童向けの本なのでしょう。伝記本というのは、いきなり話が突拍子もなく飛んだりしないので、英語の苦手な人にも読みやすくてオススメですよ。この本も、このくらいなら過度に頭を使わなくても読めるので、日本人が読む英語の伝記本としてはなかなか良い具合です。
ヒラリーは英国隊の隊員としてエベレストに登頂したため、彼はイギリス人なのではと思っている人もいるかもしれませんが、彼は北島のオークランド近郊で生まれ育った、れっきとしたニュージーランド人です。
若いうちから兄弟で養蜂の仕事をし、第二次世界大戦時は空軍に所属するもキリスト教徒のじぶんが人を殺める戦争に加担してよいのかと思い悩み、一旦離軍。そのときに初めて友人とマウントクック国立公園を訪れ、ハーミテージホテルに宿泊し、ミューラーハットを経てオリビエ山に登頂し、そこで本格的な登山に目覚めたといわれています。
戦後も養蜂家として働きながら登山もつづけ、マウントクックも含めた周辺の山々で氷雪のテクニックを磨き、やがて英国のエベレスト遠征隊からの御声がかかり、そこに参加。
ヒラリーはエベレストでは隊のなかでもバツグンの能力を発揮し、次第にシェルパのテンジン=ノルゲイとペアを組むようになり、ついに標高8500mの最終キャンプから頂上(8850m)へのアタック隊の第二候補として二人が選ばれます。
第一候補の二人は頂上まで100m足らずのところまで登るも、酸素ボンベの不調で敗退。それを受けてヒラリー・テンジン組が挑戦し、現在ヒラリーステップと呼ばれている最後の難関をなんとか乗り越え、1953年5月29日の正午近く、二人は世界最高峰の初登頂を成し遂げたのです。
その偉業から彼はエリザベス女王から「サー」の称号を与えられ、その直後に結婚。「ヒラリーと言えばエベレスト初登頂」くらいしか知られていませんが、じつはその後もヒマラヤの雪男イエティを探しにいったり、高地での人体機能の研究隊の隊長をしたり、また英国の南極大陸横断隊のサポートとして改造した農業用トラクターで南極点に達したりと、けっこうその後の探検史にも足跡を残しています。
しかしヒラリー卿の人生を語るうえで、ニュージーランドの人が本当に誇りをもって謳うのは、もしかしたら「それらの後」のことかもしれません。
長年ヒマラヤの山々に通った彼は、その後お世話になったシェルパ族への恩返しとして、彼らの生活向上のための「ヒマラヤ・トラスト」という支援財団を設立。学校や病院、橋の建設などをネパールのあちこちで行いました。それは、最愛の奥さんと末娘を飛行機事故で失ってからも深い悲しみを超えて40年以上も続けられ、現在ではその学校で学んだシェルパたちが世界中で活躍しています。
なにを隠そう、じつはここマウントクックの日本語ガイドチームで働いているシェルパの人もヒラリー卿の建てた学校を卒業しているのです。彼はシェルパ語やネパール語はもちろん、英語や、自身一度も行ったことがないのに日本語まで完璧に話し、ガイドもしてしまうというツワモノです。
ヒラリー卿は2007年にオークランドで亡くなる前から、ニュージーランド本国、そしてネパールでも英雄でした。生前からお札に顔が載る人というのも、国家元首以外でとなると世界的にも珍しいのではないでしょうか。(NZの5ドル札にはヒラリー卿の若い頃の横顔が印刷されています)
もし彼がたんにエベレスト初登頂をしただけだったら、きっとここまで国民的なヒーローまでにはならなかったでしょう。こちらの人は、いまでも尊敬の念と愛情をもって、彼のことを"Sir Ed"と呼びます。
飾り気はなくとも、類まれな能力と人格を有する者。
長い伝統で洗礼されたイギリスや、近代文明の粋のようなアメリカとも一味違う、田舎ゆえに自然と向き合うことで培われた芯の強さと素朴さをあわせもつ、いかにもニュージーランドらしい人物の第一人者といえるでしょう。
彼が生前に残した言葉です。
「いま人生を振りかえってみて断言できることがある。私がしてきた探検の多くはささやかなものだ。自分がしてきたことでもっとも価値があったのは、偉大な山々の頂や、最果ての地に立ったことではなく、ヒマラヤに暮らす大切な友人たちのために学校や診療所を建てたり、美しい僧院を再建する手伝いをしたことである」
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